十勝沖地震 ~マグニチュード7.8の巨大エネルギー~
東京築地の市場と朝の電話連絡がすんで、熱いお茶をすすっているときだった。椅子が突然ゆっくりと、そして大きく揺れだした。
「地震だー」事務室の4、5人が一斉に立ち上がった。わたしは「ストーブを消せ」と叫び、窓から工場の梁を見上げた。鉄骨が軋みながら埃を降らせている。これは大きいぞーと思った途端、前にもまして床を突き上げるような上下動が襲ってきた。震度4か、5か。工場内に停めてあった小型トラックがコンクリート床で躍っている。女子事務員たちが悲鳴をあげて部屋を出ようとするがドアが開かない。大きな2号金庫が壁からはなれ、上の花瓶が倒れ、散乱した書類に水がしたたっている。激しい揺れは3分ぐらいも続いたろうか。途方もない時間が経過したようで、やっとあたりが静かになった。
昭和43年5月16日。十勝沖地震の発生だ。壁の時計をみたら10時少し前で止まっている。すぐにテレビを入れたが反応なし。電気が止まった。電話も駄目。トランジスターラジオを探し出してスイッチを入れたが音楽が流れてくるだけ。電源ストップで工場は緊急の対応に大童わ。冷蔵庫内の照明も切れ、作業中の要員が脱出用ライトを手にやっと出てきた。庫内の冷凍イカの山が崩れたようだが、幸い人員に異常はない。
まずひと安心と思っていたら、「潮が引き出したぞッ」と叫ぶ工務課長の声。岸壁へ出てみるとなるほど、水面が50センチメートルも下がっている。これは震源が近いぞー。ラジオの情報を待ったが、相変らず音楽が流れてくるだけ。だが、間違いなく津浪はくる。全員で津浪準備の作業にとりかかった。
8年前のチリ津浪の経験から、まず機械室電気系統の保全措置。特にモーターを水没から守るため、大小すべてのモーターをチェーンブロックで梁への吊り上げ作業だ。その間にも海水面はずんずん下がり、目の前の船溜りの底が現れた。沖出しのおくれた漁船が横倒しになり、係留中の艀が何隻も水のなくなった海底に張りついている。わが社のある白銀西岸壁から第一魚市場にかけての海底が、すべてどす黒い素肌をみせて不気味に光っているのだが、ラジオからはまだ何の情報もない。コンデンサー塔に上がって沖を見張っていた一人が「津浪が見えるぞッ」と叫んだ。みると蕪島の沖の海面が大きく盛り上がり、白いしぶきを立てながら港内になだれてくる。
さあ、来たぞー。女子従業員たちはすでにトラックで高台の安全地帯に避難させている。残った全員は冷蔵庫屋上に待避。鉄筋コンクリート、高さ10mの建物だからよもや流されることはあるまい。折角の機会だから屋上からじっくり津浪を観察させて貰うことにする。
蕪島に白い波頭が見えたと思っていたら、津浪はもう目の前の黒い波高となって幾重にも重なり、陸上へと崩れてきた。工場構内はたちまち黒い奔流の渦。塀が破られ、タンクが横倒しになり、建物の外壁を洗いながら泡立つ波が眼下の陸地を埋めつくしてゆく。水は右からも左からも襲ってきて水嵩を増し、異様な臭気が立ちこめる。黒い潮は埋立地一帯を完全に水没させ、大小の建物を呑みこみ、縦横に暴れまわっている。
そのうち、黒い流れが今までと逆の方向へ走り出した。引き波だ。ドラム缶や魚凾や角材や雑多なものが矢のように運ばれてくる。激しくぶつかり合い、もみ合い、へし合い、次々に岸壁から海へと落ちてゆく。
第一波の嵐がようやく収まる頃、ラジオが津浪警報を告げ出した。もう11時近くだった。震源地は十勝沖。震度5。マグニチュード7.8とくり返し、八戸市内での火災発生を告げていた。
第二波は11時すぎ。第一波よりさらに激しい勢いで陸地にへ押し寄せた。第一波の傷跡をえぐるように、勝手気儘に駆けめぐり、荒れ狂い、道路や岸壁を削りとって、野獣の群れのように海へ引き返していった。わが社の構内に印された最大波高は地上2.2メートルにはっきりと黒い線をのこしていった。